ニコラス・ギジェン・ランドリアンへのインタビュー

Nicolas Guillen Landrian

追放の映画――
インタビューア:マヌエル・サヤス
協力:ララ・ペトゥスキー・コヘール、アレハンドロ・リオス

ニコラス・ギジェン・ランドリアンは2003 年6 月22 日に他界した。
その2 ヶ月前、彼の生前最後となったインタビューで彼は自分の上映禁止にされた映画について話してくれた。
ここに述べられるのはその人生の中で実にいろんな職業を経てきた男の言葉である。
映画監督、画家、そしてときに詩人、あるいはラジオのアナウンサーでもあり、またその悲運なときには公園の管理人や掃除夫などもした。
息を引き取ったのはマイアミだが、ハバナに埋葬されるのを望んだ。

――ニコラス、映画を始めたきっかけは?
まだ十代の頃、カマグエイの仲間たちと16ミリの映画を撮ろうとしたけれど、できなかった。編集機材がなかったから。覚えているのは、母が切り貼り式の編集機を買ってくれたんだけれども、フィルム編集はできなかった。カメラはあった。でも映画は作れなかった

――何についての映画だったか覚えていますか?
あの時期にハバナでやってたカトリックのお祭りについての映画。

――その後は?
その後は人生が僕を他の道へと導いていった。大学、そして反バティスタ活動…

――あの時期は何を勉強していたんですか?
社会学。外交官になりたかった

――ICAIC へはどうやって入ったのですか?
あの頃僕が結婚していた女性、名前はクリスティナ・ラゴリオ。女優だったんだけど、彼女にこう言われたんだ。「ICAICに行ったらどう? あなたは絵描きで、映画が大好きなわけだし。履歴書を持っていったら、入れてくれるかもしれないじゃない?」って。フアン・カルロス・タビーオが僕を連れていってくれた。着いたら書類を書かせられて、制作助手として採ってくれた。そこでヨリス・イヴェンスに会ったんだ。僕は彼につくように言われて、彼の授業も受けた。 ヨリス・イヴェンスは人に対する愛情にあふれていて、映画のことをとてつもなくよく知っている。僕のことを映画監督にしたのは彼なんだ。イヴェンスはキューバでドキュメンタリー映画の学校を作るために招聘された。そのときに、彼が僕を助監督にしてくれた。その途端に事務仕事から一気に芸術的な仕事に転向。僕はゴッホの絵について台本を書いて彼に見せた。その本を読んで、彼は僕を作り手側の部署に抜擢してくれた。事務的な仕事じゃなくてね。そこから始まったんだ。

――どうしてギジェン・ランドリアンという名前を出していたんですか?
 僕のドキュメンタリー作品でフルネームを出してるのは1本しかない。他のはみんな、ギジェン・ランドリアン。ニコラス・ギジェン・ランドリアンとクレジットすること
はできなかった。詩人のニコラス・ギジェンと間違えられるから。詩人は映画は作らなかったからね。

――両親について聞かせてください。
 父は弁護士。製糖労働者のために歩合制の賃金の代理請求をする仕事。父は偉い人だった。母は手芸が好きで人形とか飾り物とかを作っていた。アート系。僕は絵を描くようになった。僕もアーティストでニコラス・ギジェンのようになりたかった。映画をやるようになる前には絵を描いていた。学校はサン・アレハンドロ。サン・アレハンドロ美術学院の付属…

――『Patio arenero(砂の庭)』や『Homenaje a Picasso(ピカソ礼賛)』、『Congos reales(王様のコンゴ)』といった初期の短編、今はもう残っていませんが、これらの作品はあなたにとってどんな意味がありましたか? 実験の要素がすでにあったのですか
 もちろん。編集や撮影のやり方、登場人物の扱い方などに。『Congos reales(王様のコンゴ)』はいい短編だったと思う。どれも4、5 分で、フェルナンド・ビジャベルデがディレクターをしていた「EnciclopediaPopular(民衆百科)」と呼ばれる短編シリーズの一環だった。

――あなたのドキュメンタリーにはほとんどインタビューがありませんね。
 映像の方が言葉よりももっと重要だった。何か新しい映像言語によって映像を充実させたかった。もっと大胆な言語、観客が見ていて面白いもの。

――その新しい言語は何に影響されたのですか?
 ICAIC です。あの時期のすべてのドキュメンタリーはICAIC で見ることができた。加えて、ICAIC ではアヴァンギャルドの映画を撮るためにすべての作家がICAIC の中で動き回っていた…。僕だけの話じゃない。全員が多かれ少なかれそういった映画に取り組んでいた。映画産業の中で地位を獲得しようという欲望があったので、あまりよく思われていなかったようなことも思い切ってやった。つまり、キューバの民衆についての映画を撮るとしたら、(革命が成功したばかりの)あの時代は少なくとも幸福感がなきゃいけなかった。でも僕にはそれがなかった。

――『トーア川のオシエル』ではインサートに「これをハバナの人に知ってもらえるのはいいことだ」とありました。田舎の問題はどの程度まで認識されていたのですか。田舎に住む人
たちの詩情についてどの程度まで表現しようと思ったのですか。形式的には何を狙ったのですか。また何か発見したものはありましたか。
 『トーア川のオシエル』はテオドール・クリステンセンとの会話の中で浮かんだんです。僕がクリステンセンに「もう僕には取り組むべきテーマがない」と言ったら、彼が「田舎に行ったらいい。田舎でテーマを見つければいい」と言うので、僕はICAIC の上司に話をつけて、バスに乗ってバラコアへ行ったんだ。バラコアへ着くと僕はその土地と人々の美しさにすっかり魅せられてしまった。それで、あの地方の村の人たちの現実の生活を通してキューバという国のフレスコ画として『トーア川のオシエル』を撮ろうと思った。ただし、あまり楽観的にはならずにね。

――その映画ではおそらくあなた自身もあの牧歌的な暮らしに変化が見られつつあることを宣言していますよね。あそこでは変化が起きつつあると…
 僕はすべての移り変わりを捉えようとしていた。それが自然なことであるし、僕がトーア川へ行って、今でもそこが相変わらずICAIC の政治的な見地から見て受け入れがたい土地のままだったとしたら、僕はそれをドキュメンタリーになんかしない。僕はトーアの土地の社会的政治的な生活の全ての側面、彼らが表現していたこと全てを盛り込んだ。「ハバナの人たちがこれを見たらどんなにいいだろう」というのは彼らの一人から出て来たアイディアだ。「僕がこうしてこの箱を担いで、こうして売り物を担いで川を歩いていることをハバナの人たちが見てくれたらどんなにいいだろう、これをハバナの人たちに見てほしい、だってあの人たちはこんなこと一つも知らないんだから。」だから僕はこれを映画に入れたんだ。

――あなたの映画であなたは革命の叙事詩、正式の言説から遠ざかろうとしていると言ってもいいでしょうか
 まあ、それは『コフィア・アラビカ』の中でそういうことを少しは狙った。革命の叙事詩をね。それから『Taller de Línea y 18(リネア/ 18 番通り工場)』もそう。ただ
叙事詩映画を作ろうとしたわけじゃない。上司は、国がICAIC に課していたことに沿って、オーソドックス(革命的)なものを求めていた。『再びバラコアへ』をある
種の古典的な映画だと見る人がいたとしても僕はそれを認めることはできない。ジャンル分けなど僕にはできない。僕はただ、他とは違う映画、他と交わらない映画、飽くまで個人的な映画を作ろうとした。 ときどき、仕事がひどく難しくなって最初に意図したものと違うものになることがあった。よく授業でそうなったんだけど、ヨリス・イヴェンスはそのことを批判するどころか、ほめてくれた。でも他の監督、たとえばフリオ・ガルシア・エスピノサなんかには、承認を受けた脚本通りにやらなければダメだと言われた。僕はこれがどうもダメで、ICAIC 製作の映画の何本かは問題だった。 一つ説明しておくと、例えば、僕の最初のドキュメンタリーは自分の好きなようにできた。最初の3、4 本はすべて僕が企画を出して僕が監督した。その後、『トーア川のオシエル』、『再びバラコアへ』、『Un festival deportivo(あるスポーツの祭典)』の3 本を撮った後、僕は逮捕された。イデオロギー上、問題があると言われたんだ。ピノス島へ送られて、電気ショックにかけられた。釈放されてから、僕は彼らに、「僕には他にやることがない」と言った。「映画の仕事を続けるか、あるいはこの国から出してくれ」と。すると「それはできない、映画の仕事を続けるように」と言われて、『コフィア・アラビカ』の仕事が廻ってきた。
 『コフィア・アラビカ』の依頼がきて、それは当時僕が作ったものの中でも、もっとも頭の痛い映画だった。出所後あらためてICAIC に入ることになった僕はICAICの意向に譲歩して科学技術系ドキュメンタリーのセクションに配属された。しかし、例えば『トーア川のオシエル』は誰からの委嘱でもなかったし、『再びバラコアへ』だって『踊る人々』も『古い街で』もそうじゃなかった。あれはみんな自分で自由に作った作品だった。自分でテーマを選んで、自分で撮った。

――『コフィア・アラビカ』についてもっと聞かせてください
 作品の中に皮肉はある。でもバカにしていたわけじゃない…。もしすごくバカにしていると見えたとしたら、僕の意図とは違う。〈Cordón de la Habana(ハバナ・シュガー
ベルト)〉計画の周辺で起きていたこと、その影響を皮肉りたかった。同時に島の他の地方のコーヒーにも触れた。それに僕はね、コーヒーを作っている人たちがどんな暮らしをしているか、どんなふうに仕事をしているか、どうやってコーヒーが作られるかを、これはもうずいぶん生々しく描いてしまった。コーヒーの種をまいて、収穫して…。暑い屋外での作業は、かなりの重労働。そのコーヒー計画をバカにする意図は少しもなかった。そんなことをしたらバチがあたるよ。でも皮肉はあった。

――『コフィア・アラビカ』のサウンドトラックはどうしたのですか?
 それはね、いくつかのトラックをミックスしたんだよ。数トラックを並べたんだ。複数の音源をミキシングした。あの時代のハバナやキューバに呼応していると思った要素を全部使った。アーティスト、パーソナリティ、ページョ・エル・アフロカーンとかね、つまり嘲りがあったとしたら、それは〈ハバナ・シュガーベルト〉計画が成功しなかったっていう事実に対してだ。それこそが、このドキュメンタリーがコーヒー計画をバカにしていると見られてしまう原因なんだ。だって僕はコーヒー計画が革命の大きな業績になると聞いていたし、だからこのドキュメンタリーをあえてやろうと
思ったわけだし。でも疑っていた部分もどこかにはあってね、その疑いを映画のどこかに入れたかった。

――反応はどうでしたか。
 他での反応は僕にはわからないけど、ICAIC の反応はべた褒めだった。プレミアにはガラ上映までしてくれた。僕の記憶
が正しければ、ラウル・オリーバという優秀なデザイナーにポスターまで発注してくれた。作品はオーバーハウゼン短編映画祭でも上映された。でも『コフィア・アラビカ』の騒動は突然始まった。それまでは何の問題もなかったし、僕は何も言われなかったし、ICAIC の人間でネガティブなことを言う者は誰一人いなかった。でも招待客の中の誰かの気に喰わなかったんだね。「フール・オン・ザ・ヒル」(ザ・ビートルズ)の曲がね、どうやらいけなかったらしい。僕は自分でもすばらしい出来だと思って、有頂天だったのにね。あの音楽が皮肉めいて、つまり、一部の人にとってはそれがコーヒー計画を馬鹿にしていると映ったんだ。

――あなたにとってこの作品は最終的にはどんな意味がありましたか
 僕にとってはとてもいい経験になった。あれを作ることができてとても幸せだったと思っている。映画言語について言えば、ひとつの規範ができたと思う。それが僕のやりたかったことだし、キューバの映画産業で他のどんな映画とも違う言語を作り出すっていう。そうやってコーヒー計画を讃えようと思ったんだけど、でもコーヒー計画自体がね、何度も言うけど、うまくいか
なかったんだ。

――その後、『Desde La Habana, 1969, Recordar(ハバナより、1969、思い出す)』そしてリタ・モンタネールについてのドキュメンタリーへと
続くわけですが…
 『Desde La Habana…(ハバナより…)』では、主観的な映画を撮ろうと思った。とてもパーソナルで実験的、完全な実験映画をね。でもそれはできなかった。なぜなら
「カオティックだ」と言われたんだ。この一連の作品を作り始めた頃は、僕がもう既にちょっと精神状態がおかしくなりかけていた頃だったし。僕のハバナでの生活状況が僕をゆっくりと狂気へと追いつめていった…。

――『Desde La Habana…』はどうしてマスターコピーが作成されなかったんだと思いますか?
 ICAIC がコンテクストとの整合性がないと判断したから。そう言われた。キューバの実情と食い違っているって。『Rita Montaner(リタ・モンタネール)』も同じ
で、不整合だと。ICAIC の当時のディレクター、フリオ・ガルシア・エスピノサは、僕をこの国の実情とは食い違った人間だと言うんだよ。想像してみてくれよ!

―― ICAIC に入って10 年経って『Taller de Línea y 18(リネア/ 18 番通り工場)』、『Un reportaje sobre el puerto pesquero( ある漁港のルポルタージュ)』、『Nosotros en el Cuyaguateje(クヤグアテヘの私たち)』、『Para construir una casa(家を建てるために)』を撮るわけですが、それについて聞かせてください
 自分のドキュメンタリーが一般公開されているかどうかなんて知らなかった。これは知っていてもらいたい。ただ、『Taller de Linea y 18』はこんなことがあった。作品が
公開されて、当時のラジオ・クバーナがこんな批判を放送したんだ。「映画に出てくる『あなたはこの集会で審問されたいのですか』というテキストはどういう意味なのか。誰に対する質問なのだろうか。」これは本当にひどかった。「ギジェンはこれで何を言いたいのか」っていう意味ですよ。それをラジオで放送されたんだから、もう

一巻の終わりだよ。
 ただ、僕が映画界を追われるきっかけになったのは『コフィア・アラビカ』ではなく、『Taller de Linea y 18』だ。その後も『Nosotros en el Cuyaguateje』という映画を撮るには撮
ったが、ただきれいなだけの映画。『Taller de Linea y 18』はICAIC 内部でも外部からも強い反発を受けた。サウンドトラックには工場の現場のかなり大きな音を使った。現在残っているコピーにはその音はもうない。削除されてしまった。サウンド編集は切り捨てられたんだ。ハンマーの音、電動機械、労働者たちの話し声、それを全部一緒にミックスしたのが、気に障ったのだ。
 試写会でフリオ・ガルシア・エスピノサはもし取材した工場の労働者たちがかまわないというのであれば問題ないと言った。そこで労働者たちがICAIC へきて、工場の責任者、組合の代表者も一緒に作品を見た。フリオが彼らに「あなた方はどう思われますか、サウンドは気に障りますか」と尋ねた。すると「いいえ、私たちには問題ありません」という答えが返ってきた。工場の労働者たちは作品を了承し、それを経て作品は一般に劇場公開された。

――誰にいちばん支えてもらいましたか
サンティアゴ・アルバレス。アルバレスは僕が彼の監督のもとで作ったドキュメンタリー全作品を認めてくれた。彼はいつも僕に本当によくしてくれた。

――あなたはサンティアゴ・アルバレスの弟子だと思いますか?
 いや、自分はサンティアゴ・アルバレスの弟子だとは思わない。でもあの時代の政治的なテーマに対する彼の姿勢を僕はいいと思っていた。僕にはそれがしっくりときた。彼はとてもよいドキュメンタリー作家だと思う。それからティトン(トマス・グティエレス・アレア)は僕にとても近い存在だった。彼は僕のことを映画界の中でもっとも優れた監督のひとりにあげていた。

―― 70 年代始めにICAIC から追われたわけですが、その経緯は?
 僕がICAIC を追い出されたのはとても唐突だった。だって僕はまだ映画を作りたかったから。僕はまずい映画を作ったわけじゃない。特に僕の場合、ICAIC への圧力にもちゃんと気をつけていなければならなかった。なぜならアルフレド・ゲバラ(1973 年から文化副大臣を務めた)はいつも僕の映画を褒めるというので有名だった。

――その後は何をしたのですか。
 絵を描いた。でも絵の具をもらえなかった。ハバナの街を放浪するようになって、
ある見方をすれば僕はひとりで国家に対してスパイ活動をしていたようなものだ。なぜならこれはフィデル・カストロ・ルスのやったことだからだ。フィデル・カストロ・ルスは、僕がICAIC に入った当初、『古い街で』のプレミアを見て「おい、『古い街で』はフランス人が撮ったみたいだな」と言った。あの時代にそんなことを言うなんて! フィデル・カストロ・ルスは『古い
街で』についてそう言ったんだ。それで、僕はフリオやアルフレドやサンティアゴとかそういった人たちよりも、フィデル・カストロが、僕をICAIC から追放した張本人だと疑っている。彼が僕をICAIC から追放した、間違いない。誓ってもいい。

――その追放についてどう思いますか。あなたは今でも忘れられた存在だと思いますか。
 いや、思わない。最近はもう自分が忘れられているとは思わない。ハバナで何年間も追放生活をしたけれども、誰かが、あるいは何人かの人が僕のことを思い出して、それをなんとか撤回しようと努力してくれている。でも追放刑というのはとっても暗くて突き破ることのできないベールのようなものでね、健康で正気の人間としてそれを生き延びることはできない。僕がその例
だ。

――出国はどういういきさつだったのですか。そしてマイアミに来てどうなりましたか
 まず、(ハバナで)逮捕された。最後に逮捕されたとき、危険人物に指定された。
その内容は、「最高指令官暗殺未遂、イデオロギーの相違…」。他に何て言ってたっけ? 不法出国未遂。そんなのはみんなでっち上げ。キューバの元囚人たちが僕を亡命候補者のリストに載せた。他に、何人かの知識人たちは僕が国を捨てるべきだと言い、早く出国させるように求めた。

――なぜフィクション映画を撮ろうとは思わなかったのですか
 『Buena gente(善人)』というタイトルの劇映画の本を提案した。ひとりの善人がいて、彼のやりたいことは、国の指導者を暗殺すること。その本は承認されなかった
んだけど、裁判で証拠として提出されて、僕が反革命者で、国家指導者の暗殺を画策したと言われた。その本のストーリーはとてもいいハッピーエンドにもかかわら
ず。

―― 30 年間の沈黙の後、『Inside Downtown(インサイド・ダウンタウン)』を撮りましたね。どんな体験でしたか
 マイアミで撮ったこの映画は自分がまだ映画を撮ることができるということを証明するためだった。ビデオで、全部デジタルで撮った。デジタルで撮ったのはそれが初めて。結果は…。とにかく、このドキュメンタリーは賞を取った。『Inside Downtown』はウルグアイで賞を取った。名誉賞。でも僕にとっては、始めはとても
難しかった。でも時間が経つにつれて、撮影にすごく長いプロセスをかけ、少しずつ調子が出て来て、やる気も出て来た。製作と撮影をやってくれたホルヘ・エグスキサが、すぐに実現できるようなアイディアを考えた方がいいと助言してくれたんだ。僕の生き方に沿って、マイアミで知り合った人たちと一緒に作るようにって。

――この映画で何を伝えようと思いましたか 僕がマイアミにいるということ、僕がまだ
生きていて、映画を作っているということ。

――紆余曲折はありましたが、今は幸せだと言うことができますか
 幸せじゃない。パートナーのグレーテル・アルフォンソと一緒に過ごす幸せなひとときのおかげで、ときどき自分はわりと幸せだなと感じることはある。なぜなら幸せというものは少し神話のような(手に入れることのできないような)ところがある…。しかし、僕は幸せになりたい。僕はそこに到達したい。できるかどうかはわからない。しかし、一方で生きていく辛さというのも
あって、毎月家賃を払わなければならなくて、セイキューショ(彼はこの言葉を英語で言った)の支払いもあって…、友達も作って――これはいつもとても難してくてね…、孤独にならないようにしなくちゃいけない。

――人にはどんなふうに自分のことを覚えておいてほしいですか
 身長6 フィートの黒人、気さくでインテリジェント、すべての人に思いやりがあって…。そいうふうに覚えておいてほしい。アーティストとしては、僕の作品がある。僕は今でもアーティストだし、これからも絵を描き続けていく。ドキュメンタリーも1本撮った。僕が自分はこういう人間だと思うように人にも思われたい。いいヤツ。そう、いいヤツだ、とね。

[訳:川口隆夫]

Translated by Kawaguchi Takao for the Catalog of Yamagata International Documentary Film Festival, Yamagata, Japan, 2011. The English version can be found here. The original text of the interview was published in Spanish, and can be found here. Courtesy of Kawaguchi Takao.

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